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2020年度 ポテンシャルな顕著な普遍的価値(OUV)の言明(案)

2021年6月23日(水)

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ユネスコ世界遺産一覧表へ記載される(世界遺産に登録される)遺産は、その自然遺産及び文化遺産が「顕著な普遍的価値」(Outstanding Universal Value, OUV)」を有しています。(不動産の遺産が対象です。)

「顕著な普遍的価値」(OUV)とは、(その遺産の)「文化的及び/又は自然的意義が国境を越えるほど顕著であり、今日及び次世代のすべての人類にとって共通に重要であること」です。

具体的には、以下を証明することで「顕著な普遍的価値」(OUV)が認められます。

・遺産がユネスコが定める10つの評価基準(内、文化遺産は6つ)のいずれか一つ以上に該当すること

・遺産が完全性と真実性を有すること

・遺産の保存管理体制が整っていること

 

「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」とは、通常数百ページで構成される世界遺産推薦書本体において推薦する資産が持つ価値が簡潔かつ十分に記載されなければならない中心的な記載事項です。

私どもは2019年度から、2019年3月に策定した「登録に向けたロードマップ(2019年度~2021年度)」にもとづきロードマップ委員会を中心に、世界文化遺産学識経験者等専門家による助言と本法人理事による指摘を参考に本案を磨き上げてます。

なお、「顕著な普遍的価値(OUV)の言明」は、ユネスコ世界遺産委員会にて世界遺産登録が正式に決定されるまでは常にポテンシャルな(可能性のある)状態であるため、私どもは「ポテンシャルな顕著な普遍的価値(OUV)の言明」と呼ぶことにしています。

以下では2019年度版と2020年度版を併記することにより、その磨き上げの変遷をお示しします。

本案は2021年度も、そしてその先も常に磨き上げが必要となります。みなさまのご意見ご感想をいただけますと今後のはげみとなります。よろしくお願い申し上げます。

 

資産名称 長島のハンセン病療養所群

 

1 総合的所見

(2019年度版)

長島は日本の西部、瀬戸内海に位置する周囲16キロメートルの島である。本土との距離は22mしか離れていない。国が1927年に国立第一号のハンセン病療養所の地として長島を選定したことを受け、長島の大部分は国有地となった。

国は、1907年から始まった日本における隔離政策を1931年から「癩予防法」(旧法)に基づき強化するにあたり、1930年に長島に日本初の国立療養所長島愛生園を設置した。長島の西部は1938年に、大阪で台風によって壊滅した療養所(現在の国立療養所邑久光明園)の移転先となった。この移転は、当時の社会がハンセン病療養所を地域で受け入れることを拒否し、排除したことを反映したものだった。

長島愛生園の初代園長、光田健輔医師は日本および当時日本の統治下だった地域における隔離政策をけん引した人物であり、長島は名実ともにハンセン病患者隔離の象徴となる場所となった。療養所は本来病気の治療をする場所にもかかわらず、患者数が定員をはるかに超え、予算措置が全く不十分だったため、入所者は自活する必要に迫られた。療養所コミュニティの維持のため、入所者は自身の手で看護や介護に加え、平地が少ない島であるという厳しい条件の下で畑作や畜産にも従事しなければならなかった。

1940年代後半以降、ハンセン病が治癒する時代となるも1953年の「らい予防法」(新法)は療養所からの退所規定を設けず、隔離政策は1996年に同法が廃止されるまで継続した。療養所内では第二次世界大戦前から1953年までは逃走患者の監禁が、1990年代にかけては断種手術が行われるなど、数多の人権侵害が繰り返された。

1953年以降、入所者達は処遇の改善と人権の回復を目指し、運動体を組織し、国に対して働きかけを始める。そして、2001年には国の政策は誤りだったとの違憲判決が下され、国は謝罪した。

現在、療養所は元患者の住まいと人権学習の場という二つの役割を担い、すべての人の人権が尊重される社会の実現に向け活動しているが、入所者の高齢化のため、今後の存続が危ぶまれている。

病気による差別と著しい人権侵害の歴史、及びそこから人権を回復していった過程を今に伝えるこの島の療養所の景観は、人権が尊重される社会の実現の重要性を如実に物語る、普遍的な価値を持つ。

(2020年度版)

長島のハンセン病療養所群は、日本が20世紀にハンセン病患者の隔離収容と治療を目的として設立した長島内の国立療養所長島愛生園と邑久光明園の遺跡及び建造物群、並びに本州と長島をつなぐ邑久長島大橋で構成される。

長島は日本の西部、瀬戸内海に位置する。瀬戸内海は日本最大の内海で約700の島々を有する。長島は東西に細長い形状をした周囲16キロメートルの島であり、幅30メートルに満たない海峡を挟んだ本州とごく近い場所に浮かぶ。現在そこには邑久長島大橋が架かる。

長島愛生園は1930年に日本初の国立ハンセン病療養所として長島東部に開設された。邑久光明園は大阪に設置されていた前身の公立ハンセン病療養所が台風被害により壊滅し、1938年に長島西部を再興の地として開設された。

現在、長島の二つの療養所には、既にハンセン病は完治したものの、日本の隔離政策が長期にわたったため療養所を離れることが不可能となった入所者約200人が暮らしており、その多くが医療・介護のサービスを受けている。

1873年にらい菌が発見され、ハンセン病が感染症であると判明すると世界各国はハンセン病療養所を開設し、患者の隔離収容を行った。日本はそれらの一部を例としながらも収容の際の有形力の行使や、患者やその家族への偏見を助長する形態による収容の実施、例外なき絶対的かつ退所を認めない終生の隔離による患者個人の尊厳の軽視を特徴とする隔離政策を法と施設を整備して展開した。

1940年代後半に治療薬プロミンが国際的に普及すると、世界各国は隔離の段階的な廃止や在宅治療、一般病院での治療の道を採り、療養所は廃止又は他施設に転用された。しかしながら日本は1996年まで国際的な非難を受け続けつつも独自の隔離政策を継続したため、療養所が存続した。2001年、裁判所は隔離政策を継続した立法と行政の不作為を憲法違反と判断した。

一方、療養所入所者は自身らによる自治を強化し、日本政府に処遇改善や施設整備の予算要求を行う権能を得るに至った。長島の二つの療養所入所者は隔離の必要が無い証として本州との架橋を求め続け、1988年に邑久長島大橋としてこれを実現させた。

隔離政策により社会や親族との関係を断たれ、多くの苦難を強いられた療養所入所者が示したレジリエンスは極めて逞しく、現存する世界各地のハンセン病療養所には認められない顕著で普遍的な価値を持つ。

長島の二つの療養所は、1943年のピーク時には20世紀における世界のハンセン病療養所史上第三の規模の入所者を隔離していた。長島愛生園単独では世界第四の規模で、同園は日本初の国立ハンセン病療養所であるのみならず規模においても国内最大であった。同時に長島愛生園には全国の国立療養所から様々な情報が集まり、各園に対して同園から指示がなされていたことから長島愛生園は日本のハンセン病隔離政策を名実ともに代表していた。

日本政府は長島の二つの療養所開設にあたりそれまで島内に居住していた地域住民の土地を収用し、長島のほぼ全域を国有地化した。1938年に現在の邑久光明園が開設されて以来、長島には療養所入所者及び職員以外の者が居を構えたことはなく、病者として収容された入所者自身による自治を基礎とする独自の文化的伝統が生成・発展した。

本資産は、平地の少ない島を入所者自らが療養所の指示の下に最大限利用しながら独自の居住形態を創り上げたことを示す。患者収容に関する施設から教育施設、納骨堂まで人生の全てを療養所で過ごすことを強いた日本のハンセン病隔離政策の特徴を示す本資産の構成要素は、かつての有菌地帯と無菌地帯の別に整然と配置されている。

本資産は、個人の尊厳を極度に抑圧した日本のハンセン病隔離政策と社会や親族との物理的・精神的な紐帯を断たれた療養所入所者が島という完全に閉じられた環境下で多くの苦難を甘受することなく自身らの自治に基づく文化とコミュニティを形成し、人間性の回復を求め続けたレジリエンスを示す物証であり、病を理由とする偏見と差別の不当性、個人の尊厳と人権尊重というすべての人類にとって共通の重要性を持つ遺産である。

 

2 評価基準適合性の証明

評価基準(ⅲ)

(2019年度版)

長島は国内の13の国立療養所の中でも島という隔離を立地で生涯を過ごすために必要な景観と建造物を色濃く残しており、ハンセン病隔離政策の歴史と、そこに生きた人々の生きた証と暮らしの実相を物語っている。

1907年、国は法律第十一号「癩予防二関スル件」を制定し、ハンセン病患者に対する法的な隔離を始めた。1931年、法律第十一号は「癩予防法」(旧法)として、全ての患者を療養所に強制的に隔離するものへと強化された。また官民一体となった「無癩県運動」により、国は国民に対してハンセン病が伝染りやすく、恐ろしい伝染病であると科学的に誤った認識を流布した。

1915年以降、国内に設けられた公立療養所では断種手術、逃走患者の監禁、療養所運営のための労働、さらには退所規定のない法律による人生そのものへの被害など数々の人権侵害が行われた。

第二次世界大戦後、特効薬の導入や戦後民主主義の普及を背景に、入所者は本格的な自治を求めるとともに、処遇改善や人権回復の運動をはじめたが、1953年、国は療養所維持のため「癩予防法」を「らい予防法」(新法)に改正した。約半世紀に渡る入所者の粘り強い運動の末、1996年にようやく隔離法は廃止され、2001年には国の政策は誤りだったとの違憲判決が下され、国は謝罪した。

療養所入所者は、家族との縁が途絶えていたり、社会の偏見に阻まれたりという理由から、故郷に帰ることも、療養所外で生きることも事実上非常に困難であった。そのような環境の下、自治会を中心とした団体自治を発展させ、療養所内の処遇改善を国に対して求めつつ、一方で生きがいを求めての文芸や、美術、工芸などの表現活動も活発に繰り広げた人も少なからず存在した。

また、入所者の生も死も島内で完結させる前提のもと、療養所内には魂の救済の場であるいくつもの宗教施設が作られ、また差別のため引き取り手のない遺骨のための納骨堂も整備された。

(2020年度版)

長島のハンセン病療養所群は、日本のハンセン病隔離政策により療養所内にとどまることを強いられた入所者が療養所から勝ち取り確立した自身らによる自治により発展させたコミュニティの存在と暮らしの実相を文化的伝統として示す物証である。

慢性感染症であるハンセン病の患者を隔離する療養所では、有効な治療薬が開発される1940年代以前から自治的な入所者組織によるコミュニティ運営が世界各地で展開された。日本のハンセン病隔離政策は終生の隔離をハンセン病患者に強いたため、入所者は社会や親族との関係を断たれ、療養所外に物理的かつ精神的な支援を求めることができない状況に置かれた。自らの生命と生活、そして尊厳を守るべく自身らによる自治を発展させ、処遇改善や施設整備、更には人間性の回復を療養所や日本政府に求めた。本資産を構成する邑久長島大橋は自身らによる自治に基づくレジリエンスが具現化した顕著な見本である。

一方、個々の生きがいを求めて文芸や創作、音楽などの表現活動に取り組む入所者は第二次世界大戦以前から存在したが、とりわけ戦後には表現の自由と民主主義思想が療養所内にも普及した結果、文芸協会をはじめとする数多くの表現活動団体が誕生し、社会との精神的紐帯の回復を求める交流が展開された。

長島愛生園では、開設翌年から機関誌「愛生」が第二次世界大戦後前後の一時期を除き今日まで発行・保存されている。第二次世界大戦後の1949年から2007年までは入所者が編集を担い、療養所コミュニティにおける暮らしの実相を今に伝える。

本資産は、約1世紀にわたる療養所入所者自身の自治による日本のハンセン病療養所コミュニティの生成から発展、そして近い将来不可避である消滅の過程を示す代表的な遺産である。

評価基準(ⅲ)【定義:ユネスコのマニュアルより】

現存しているか消滅しているにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。

Bear a unique or at least exceptional testimony to a cultural tradition or to a civilization which is living or which has disappeared

 

評価基準(ⅴ)

(2019年度版)

長島は、完全に閉じられた環境における自給的自立的生活の一つの典型である。

1930年、長島愛生園が開園すると島という立地を最大限に利用し、ハンセン病患者の隔離収容が行われた。

島内に2つ存在する療養所内は有菌地帯と無菌地帯に分けられ、患者は後者への立ち入りが禁止されていた。島の土地は入所者の生活維持のため、畑や果樹園、水田や畜産に使用されるとともに、第二次大戦中は塩田や松根油製造にも利用された。平地が少ない島をハンセン病による様々な障害がある患者自身が造成し、建物を建設し、畑は段畑を形成していった。1938年、長島西部に外島保養院が光明園として再興されると島の地形を利用しながら、その規模を拡大していった。

島は入所者にとっては隔離の場かつ自活の場であり、島内で一生が完結するように建造物が建てられている。

(2020年度版)

長島のハンセン病療養所群は、完全に閉じられた環境における自給的自立的生活の一つの典型である。

患者収容に関する施設、患者住宅を含むインフラ施設、小学校から高等学校までの教育施設、農地や畜産施設等は遺構として、現在の入所者のための住宅、介護施設、病棟や日本国内で普及する主要な宗教・宗派の会堂等は稼働施設としてこのことを証明する。長島内の二つの療養所で死亡した入所者の90%以上、約7000柱が眠る納骨堂の存在はハンセン病に対する社会の偏見と差別が如何に苛烈であるかを示す。

ハンセン病療養所を僻地や島しょ部に設置するという思想は20世紀以前から世界各地で見られた。日本では1909年に開設された5か所の公立療養所中、第四区大島療養所が島に設置された。日本政府は国立のハンセン病療養所を開設するにあたり最適な地として長島を選び、1930年に長島東部に長島愛生園を開設した。翌年から患者収容が行われ、平地の少ない島を患者自らが開拓した。

長島愛生園内の狭い平地は更に有菌地帯と無菌地帯に分けられ、患者居宅や治療施設等は有菌地帯に配置された。患者は無菌地帯への立ち入りが禁止された。

宅地以外の長島愛生園の土地は水田や畑、果樹園や畜産の場として使用されるとともに、第二次大戦中は塩田や松根油製造にも利用された。運営費と食料が乏しかった時代には、療養所は「患者作業」として病者である患者による園内作業への従事を制度化した。過酷な作業と栄養不足によりハンセン病やその後遺症を悪化させ、手足や視力を失う患者が多くいた。

1938年、長島西部に現在の邑久光明園が開設されると長島愛生園と同様の運用がなされ、長島のハンセン病療養所群はその規模を拡大した。

1970年頃から過酷な「患者作業」が徐々に廃止されると入所者自治組織による畜産や購買事業は活発となり、入所者による自律的な経済活動が療養所コミュニティ内で展開された。

差別的な有菌地帯と無菌地帯の別は、1960年頃にはその運用は事実上廃止されたが、現在でも本資産を構成する要素はその機能に応じてかつての有菌地帯と無菌地帯の別に配置されている。

本資産は、平地の少ない島を最大限利用しながらハンセン病療養所独自の居住形態が創り上げられた顕著な見本である。

評価基準(Ⅴ)【定義:ユネスコのマニュアルより】

あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)。

Be an outstanding example of a traditional human settlement, land-use, or sea-use which is representative of a culture (or, cultures), or human interaction with the environment especially when it has become vulnerable under the impact of irreversible change

 

評価基準(ⅵ)

(2019年度版)

長島は、「ハンセン病撲滅」の旗印のもとに行われた国の隔離政策と、それを長引かせた社会の無関心、またそのような状況の中、この島で人生を送った療養所入所者の困難とレジリエンスを証言する遺産である。

日本における隔離法、法律第十一号「癩予防二関スル件」は1907年に制定され、1931年から「癩予防法」(旧法)に強化され、全国に終生強制隔離を目的とした国立療養所が設立された。それに先立ち1930年、長島に日本初の国立療養所「長島愛生園」がいわば患者隔離のモデルケースとして設置され、1938年には台風によって壊滅した、もともと大阪にあった療養所(現在の国立療養所邑久光明園)の移転先となった。この移転は、当時の社会がハンセン病療養所を地域で受け入れることを拒否し、排除したことを反映している。

療養所内では入所者に対する断種や堕胎、監禁が行われた。また、入所者には労働が課せられた。入所者は隔離政策の存続と社会に残る偏見や差別のため、病気が癒えても退所できず、就職、結婚、出産、など、ハンセン病が癒えた回復者として本来得るべき人生の様々な可能性が制限され、大きな被害を被った。

それにもかかわらず、療養所入所者は自治組織とそれを束ねる全国組織を設立し、国に対して基本的人権の尊重や処遇改善を求める運動を展開し、人権の回復を勝ち取った。その結果、岡山県立邑久高等学校新良田教室の設置や、本土との架け橋、邑久長島大橋架橋につながった。さらに現在の療養所は人権を学ぶ場として多くの人々が訪れるようになった。

(2020年度版)

長島のハンセン病療養所群は、個人の尊厳を極度に抑圧した日本のハンセン病隔離政策により療養所で生涯を過ごすことを強いられた多くの入所者が自らの苦難を人間が持つレジリエンスへと昇華させた顕著で普遍的な意義を持つ出来事を直接示しており、病を理由とする偏見と差別の不当性、個人の尊厳と人権尊重というすべての人類にとって共通の重要性を持つ遺産である。

1873年にらい菌が発見され、ハンセン病が感染症であると判明すると、時代と地域によりその形態や強弱はあるものの、世界各国はハンセン病療養所を開設し、患者の隔離収容を行った。東アジアにはフィリピンに代表される患者の強制隔離を伴う米国型、マレーシアに代表される人道に配慮した隔離形態の英国型、そして日本とかつての日本の占領地に設けられた日本型の療養所が存在した。日本型は米国型をより一層推し進めた収容の際の有形力の行使や欺罔による入所勧奨、患者やその家族への偏見を助長する形態による収容の実施、例外なき絶対的かつ退所を認めない終生の隔離による患者個人の尊厳の軽視を制度的特徴とする。

20世紀の日本のハンセン病隔離政策は、1907年に制定された法律第十一号「癩予防ニ関スル件」にて資力と扶養親族のいない「放浪患者」を隔離対象と定め、1909年に邑久光明園の前身である第三区府県立外島保養院を含む国内5か所の公立療養所が開設されて幕を開けた。1916年には療養所内の秩序維持と脱走防止のための抑止力等として療養所長に懲戒検束権が付与され、療養所内が治外法権化する端緒となった。1934年の室戸台風により外島保養院は壊滅し、現地近隣での再興を試みるも地域住民の強硬な反対により叶わず、長島西部を再興の地とした。このことは、治療薬開発前という時代背景を斟酌しても当時の日本社会にはハンセン病の感染力等に関する科学的知見が普及していなかったことを示す。

軍国主義の風潮が強まる中、日本は「国辱病」であるハンセン病の撲滅を国家的課題とした。1930年に長島愛生園が初の国立ハンセン病療養所として長島東部に開設され、翌年には法律第十一号が全てのハンセン病患者の隔離を目的とする「癩予防法」(旧法)へと改正・強化された。前後して日本政府は地方公共団体や民間団体とともに全てのハンセン病患者を療養所へ収容する「無癩県運動」を開始した。ハンセン病を恐ろしい伝染病と吹聴された国民は、無癩県の達成を目指しこれを支持した。加えて患者の入所勧奨や有形力を伴う収容は当時衛生行政を担っていた警察当局により行われたこと等も伴い、患者やその家族への偏見と差別を固定化する社会構造が形成された。

一方、日本政府は療養所運営の予算を十分に確保できなかったため病者による「患者作業」が療養所運営の中核に据えられた。1936年には長島愛生園で慢性化した定員超過への不満が「患者作業」のストライキとして行動に移され、処遇改善と入所者自身による自治を要求する「長島事件」へと発展した。

社会や親族との既存の関係が断たれた上に療養所に収容された患者には断種と堕胎が強制され、療養所内で新たな親子関係を構築する機会さえも奪われ、個人の尊厳が著しく蹂躙された。

「無癩県運動」による収容に加え、社会で行き場を失い自ら療養所へ入所する患者も多く現れた。長島の二つの療養所は1943年に合計3180人が入所しピークを迎えたが、第二次世界大戦末期には約20%が栄養失調や結核等により死亡した。

第二次世界大戦中に米国でその効果が実証された治療薬プロミンは大戦終結翌年の1946年に日本国内で合成され、1947年には長島愛生園でその試用が始まった。人類は歴史上初めてハンセン病の治癒可能性を科学的な療法により探る時代を迎え、世界各国は隔離の段階的な廃止や在宅治療、一般病院での治療の道を探ることとなった。しかしながら日本は1953年、プロミンの効果を判断するのは時期尚早という療養所長らの見解が重視され、患者の強制隔離や退所規定の不存在、所長への懲戒検束権の付与という「癩予防法」(旧法)をほぼ踏襲した「らい予防法」(新法)を施行した。長島の二つの療養所を含む全国の患者自治組織はそれらを束ねる全国組織と共に法改正に反対し、日本政府(厚生省)前での座り込み等を行うが社会からの支援は皆無に等しかった。

戦後復興期から高度経済成長期にかけて概して日本国内の栄養状態や生活環境は飛躍的な発展を遂げ、新たに国内でハンセン病と診断される者は逓減した。しかし、療養所入所者を親族として持つ者は、当人のハンセン病が癒えたとしてもハンセン病に対する偏見と差別が社会構造として固定化されている状況をおそれ、積極的に親族関係の回復を図ることをしなかった。加えて医学界や法曹界、マスコミは、国際的な非難を受け続けた日本の隔離政策の不合理性について、医学的知見や戦後日本で普及した新憲法的価値から日本政府に改善を求めることを怠った。これらに起因する社会の無関心は、立法と行政の不作為として日本のハンセン病隔離政策を1996年まで温存する要因の一つとなった。

一方、療養所入所者は自身らによる自治を戦後民主主義の発展と共に強化し、療養所を通じて日本政府(厚生省)に処遇改善や施設整備の予算要求を行う権能を得るに至った。

1957年に日本政府(厚生省)は入所者に周知しない形ではあったが軽快退所基準を設けると、療養所から社会に復帰する者が多く現れた。

長島と本州は幅30メートルに満たない瀬溝海峡で隔てられている。自由を求め、泳いで逃走を試みた入所者の中には速い海流により命を落とす者がいた。「隔離の必要が無い証として橋を架けよう」と、長島の二つの療養所自治組織は1972年に架橋促進委員会を設置し、入所者による全国組織の支援を得ながら日本政府(厚生省)や地元の地方公共団体へ架橋の実現を働きかけた。1987年に桁行135メートルの橋が起重機船により瀬戸内海の播磨灘を運搬され、翌1988年に「邑久長島大橋」と命名され開通した。隔離政策により多くの苦難を強いられた二つの療養所入所者のレジリエンスを示すこの物証は、「人間回復の橋」と呼ばれる。

1996年の「らい予防法」(新法)の廃止、2001年のらい予防法違憲国家賠償請求訴訟勝訴判決確定を経て、今日二つの療養所入所者は自らが経験した日本のハンセン病隔離政策による苦難の歴史と生きた証を後世に伝える活動を展開しており、本資産の示すレジリエンスを無形的に証明する。

評価基準(ⅵ)【定義:ユネスコのマニュアルより】

顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

Be directly or tangibly associated with events or living traditions, with ideas, or with beliefs, with artistic and literary works of outstanding universal significance (The Committee considers that this criterion should preferably be used in conjunction with other criteria)

 

3 完全性の証明(略)

4 真実性の証明(略)

5 保護と管理に必要な措置(略)

 

https://www.hansen-wh.jp/report/

 

※樹木を例に本案イメージ図を作成しました。

2020ポテンシャルな顕著な普遍的価値(OUV)の言明(案) イメージ図

2019ポテンシャルな顕著な普遍的価値(OUV)の言明(案) イメージ図

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